歴史を変えた陰謀のドラマ
承久の乱
美濃・尾張の戦いドキュメント

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進軍する幕府軍、
迎え討つ朝廷軍…
1221(承久3)年6月5日、木曽川。
いざ決戦の火ぶたが切られる!

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のクライマックスは、後鳥羽上皇(尾上松也さん)が北条義時(小栗旬さん)に戦いを挑んだ「承久の乱」。北条政子(小池栄子さん)の名演説によって、御家人の心をひとつにしたという逸話も、よく知られています。

尾張国一宮の辺りは、幕府軍の軍議の地として「吾妻鏡」に登場。
朝廷vs.幕府という、日本史上初のありえない武力衝突は、なんとこの地で勃発したのです。ところが軍議後すぐの6月5日の木曽川での戦いでは、ほぼ勝敗が決定してしまいます。

この日、いったい何がおきたのか?どう戦ったのか? 
承久の乱のきっかけとなった5月15日の「義時追討の院宣」から、木曽川での決戦の1日、6月5日にいたるまでの、両軍の動きを追いながら、どんな戦いだったのか見てみましょう…。

<決戦のタイムライン>

◆5月15日 朝廷 後鳥羽上皇が「義時追討の院宣」を発する
◆5月22日 幕府 北条泰時が鎌倉を出立 
◆5月25日 幕府 3路に分けて進軍させる

22日にまず北条泰時(坂口健太郎さん)が、そして北条時房(瀬戸康史さん)、三浦義村(山本耕史さん)らが東海道を使って京へ向かった後、召集によって集まってきた武士たちは、「北陸道」「東山道」「東海道」の3ルートに分かれて、移動をはじめました。

なぜ、全軍をまっすぐ京へ向かわせないのかというと、ルート上にある在地勢力が、幕府軍か朝廷軍かどちら側なのかを確認しながら進むため。この作戦が功を奏し、朝廷軍の推定10倍以上と言われる軍勢を集めることができました。

◆5月29日 朝廷 幕府軍の西上を知り、あわてて戦の準備をはじめる
◆6月3日  朝廷 いよいよ決戦の地・木曽川へ

ようやく官軍を出すことを決めた朝廷軍は、天然の要塞である木曽川を防御ラインに定め、徐々に近づきつつある幕府軍を対岸で迎え討つことにしました。

木曽川を戦場と定めたのは、中山道と東海道の合流地点であり、古代から京都の対東国の防衛ラインとして重要な場所だったからです。大井戸には大内惟信、大豆戸には藤原秀康という主力メンバーを配備。ここを最重要ポイントとして、その周辺、8~12か所に兵を分散して守らせました。

◆6月5日  幕府 北条時房・泰時が到着し「軍議」が行われる

朝には東海道ルートを進んでいた北条時房・泰時が尾張国一宮の辺りに到着。このころには、東山道ルートの武田信光らも近くまで来ていたこと、朝廷軍の動きも見えてきたこともあり、真清田社(現在の真清田神社)付近に本陣を置き、誰の軍をどこにどう配置するかといった「軍議」が行われることになりました。

ちなみに、尾張国は守護の小野盛綱が朝廷に味方したため、ほとんどが朝廷側だったとか。想像ですが、時房たちも、いよいよ敵地に踏み込んだことを肌で感じたことでしょう。

決まったのは、以下の通り。真清田社から最も近い大豆戸(まめど)で泰時と義村が戦っている間、時房がその先の墨俣に進むという無駄のないチームプレーが読み取れます。

大豆戸北条泰時三浦義村など ※地図①
気瀬―足利義氏 ※地図②
板橋―狩野宗茂 ※地図③
鵜沼―毛利季光 ※地図④
墨俣北条時房、安達景盛など ※地図⑥

対して、朝廷軍は、幕府軍を突破させないよう隙間なく壁を作っただけの配備のようにも見えます。(これはやばいぞ…!)

幕府 武田信光が大井戸渡を突破
先陣を切ったのは、東山道ルートを進んでいた武田信光らの軍。
なんとその日の夜には、朝廷軍の大内惟信の軍に激しく立ち向かい、大井戸渡を突破するという荒業を見せます。
これには理由があって、「渡河に成功したら、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野の6か国を与える」と時房からの書状に書いてあったからです。一筋縄ではいかない坂東武者(関八州、現在の一都六県の地域の武士たち)たちをまとめあげてきた北条家直伝の “ニンジンぶら下げ作戦”は大成功。
がぜんやる気になった信光らの軍の勢いはすさまじく、驚き慌てた朝廷側は、少し戦ったもののすぐに持ち場を離れて逃げ回り、あれよあれよという間に、総崩れしてしまいました。

この悲惨な状況に驚いたのが、鵜沼渡を守っていた朝廷軍の神地頼経。
幕府軍が向かってくるのを聞き、家来の進言通りに寝返ることを決めましたが、泰時はそれを許さず、頼経ら9名を斬首して、さらしものに。幕府軍と朝廷軍の「戦う覚悟の違い」は、戦いぶりにも表れていました。

朝廷 大豆戸・墨俣で 山田重忠が奮闘
しかし、最重要地であった大豆戸では、尾張国の山田重忠が奮闘していました。優秀な武将であった重忠は、実は京方の大将・藤原秀澄に対して、鎌倉まで攻め進む案を提示しましたが却下されています。重忠にとっては、逆に京に攻め進んできた幕府軍にしてやられ、どんなに悔しかったことでしょう。それでも武士として逃げることなく戦い続けますが、川を渡る北条時氏に対して、朝廷軍は弓矢も放たないばかりか、あわてて逃亡する朝廷軍の様子を見て、とうとう撤退を決めます。(ここでは撤退しますが、重忠は、最後まで上皇のために戦い続けます。が、あろうことか上皇に手のひら返しされ、失意の中自害してしまいます…)

朝廷 大豆戸で 鏡久綱が最期まで戦う
大豆戸で戦っていた、朝廷軍の鏡久綱も「吾妻鏡」に名が残っています。彼は、まわりの朝廷軍が撤退していく中、足止めを志願して、大豆戸にとどまります。
旗に自らの名前を書き、立て並べて幕府軍に立ちはだかると、10倍もの軍を相手に戦い続けたそうです。負けを悟った鏡久綱は、「臆病者の総大将、藤原秀康の下に付き従ったので、思うように戦えなかった」と嘆き、6月6日、自害しました。
山田重忠、鏡久綱がもし幕府側についていれば、さぞや気骨ある素晴らしい武将として名をはせたのではないかと思わずにはいられません。

◆6月6日 幕府 木曽川の渡河に成功
◆6月8日 幕府 北陸道の軍が越中国で勝利 朝廷 上皇ら比叡山に避難
◆6月14日 幕府 宇治川の戦いに勝利
◆6月15日 朝廷 後鳥羽上皇が北条泰時に勅使を遣わす(事実上の降伏宣言)

「鎌倉殿の13人」では、脚本家・三谷幸喜さんの手によって、どんな戦いが繰り広げられるのか、どんな人間ドラマが描かれるのか、とても楽しみですね。

いちのみや歴史探訪徒歩めぐり

真清田神社

真清田神社
住所 真清田1丁目2-1
営業時間 9:00~16:00

無休
承久の乱では、幕府軍が尾張から美濃に侵攻する際、北条泰時が率いる幕府側の東海道軍が尾張国一宮(真清田神社周辺)辺に陣を敷き、軍議を開き合戦へと進んでいきました。

中島城址

中嶋城址
住所 萩原町中島字城址
尾張国の所領を持つ御家人の多くが朝廷側となり、承久の乱後に所領を没収されましたが、その中でも所領を取り戻したのが尾張西部の在地領主中島氏。中島氏の旧領回復は「吾妻鏡」にも記された史実です。

常念寺

常念寺
住所 一宮市大江1-11-26
営業時間 8:30~17:00
1390年、足利尊氏の甥・空遄召運上人(くうせんしょううんしょうにん)の創建と伝えられています。「蓮の寺」としても知られ、蓮の花は6月中旬から9月中旬まで見ごろが続きます。季節には、手水舎に浮かべた紫陽花も目を楽しませます。

妙興寺

妙興寺
住所 大和町妙興寺2438
営業時間 散策は日中であれば常時可能

【座禅体験】
毎月1日 15日(1月1日と8月15日は除く)
18:00頃~21:00頃
創建は1348年で、足利義教も訪れたとされる臨済宗の寺院です。自然豊かで緑多い境内は、愛知県の文化財に指定されているほか、多くの文化財を所蔵しています。国指定重要文化財となっている勅使門(ちょくしもん)は、創建当初来の遺構を今に伝えています。

一宮市では、承久の乱の軍議の地を紹介するパネルを展示しています。

(2023年1月13日まで)
●尾張一宮駅前ビル 1階コンコース
●真清田神社 宮前三八市広場

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