i-バスで巡る「いちのみや」再発見の旅!【萩原宿】

PREV

NEXT

i-バスを利用して「いちのみや」を再発見してみませんか?
i-バスのコース・バス停ごとに、市内のおすすめスポットを紹介していきます!

ということで一宮市地域交通課が作成したバスマップは、三本仕立て。
・「美濃路街道を行く【萩原宿】」
・「美濃路街道を行く【起宿】」
・「尾州織物 のこぎり屋根を行く」

今回は、1つ目「萩原宿」に焦点をあてて紹介していきたいと思います!

美濃路街道を行く【萩原宿】

美濃路街道とは?

美濃路は、中山道垂井(岐阜県不破垂井町)と東海道宮(熱田)宿(愛知県名古屋市)とを結ぶ全長約58㎞の街道でした。中山道の木曽谷※、東海道の鈴鹿峠※や七里の渡し※といった難所を避けることができるため、多くの人が好んで通行したと言われています。また陸地の道のため、将軍の上洛や朝鮮通信使、琉球使節、そして将軍家へ献上された象も運ばれれるなど重要な街道であったといえます。


※木曽谷…木曽川上流の流域。V字型の谷が約60kmも続いている。
※鈴鹿峠…坂道の険しさ・気象の変化の激しさから難所と言われている。当時は追いはぎなど盗賊も出没したため、2つの意味でも難所であったといわれています。
※七里の渡し…宮(熱田)宿から次の桑名宿まで行く方法として、陸路と海路の2つの方法がありました。その海路の距離が当時の単位で「七里」(約27.5km・約4時間)であったため、「七里の渡し」と呼ばれる。潮の干潮や天候によりコースも異なり、時間も距離も一定ではなく時には休船を余儀なくされることもあった。

萩原宿

萩原宿※は、天保14年(1843年)の資料によると、人口・家族ともに美濃路の中では最も小さい宿場で、宿役は萩原・西之川・串作の3村が勤めていました。
小さな宿場ではありましたが、幕府の巡見使※が通った巡見街道が交わり、西美濃に続く多良街道※の起点でもあったため陸上交通の重要なターミナルでもありました。

現在は、生活用道路として整備さていますが、今もなお当時の雰囲気をどこか残しています。
少し目線を上げれば、当時の面影を残していることが分かります。

※宿…街道の要衝にある集落。旅人の宿泊・休息のための宿屋・茶屋や、荷物を運ぶための人足や馬を集めた町場。
※巡見使…江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。
※多良街道…江戸時代初頭に佐賀藩が整備した長崎街道の第一の幹線で、永昌宿(長崎県諫早)~塩田宿(佐賀県嬉野市)の間の約48Kmの街道。

美濃路街道を行く【萩原宿】

舞台は大和町・萩原町方面へ

妙興報恩禅寺

貞和4年(1348年)滅宗宗興(めっしゅうそうこう)※を開山とする臨済宗妙心寺派の寺院です。
鎌倉時代の禅宗伽藍様式を保つ建物は、貞治4年(1365年)に完成したされています。幾度かの災害により、多くの建造物が失われましたが、国指定重要文化財の勅使門は創建当初来の遺構を今日まで伝え、文和2年(1352年)後光厳天皇より賜った勅額「国中無双禅刹」が掛かっています。

うっそうとした樹林につつまれた境内地は県指定史跡であるほか、数々の県指定文化財を保有しているなど、すべてが歴史的に重要なものであると言っても過言ではありません。

※滅宗宗興…南北朝時代の僧

妙興寺は、モデルコース「織物一大生産地 一宮でアート旅」でも紹介しています。あわせてご覧ください!

織物一大生産地 一宮でアート旅

一宮市博物館

一宮市博物館は、郷土の歴史、文化遺産などに関する市民の理解と認識を深めるとともに、教育、学術及び文化の発展に寄与することを目的として、昭和62年(1987年)に開館しました。

南北朝時代に創建され数多くの文化財を今日に伝える妙興報恩禅寺の境内に隣接し、建築家・内井昭蔵の設計による、歴史的景観及び自然景観に調和した落ち着きのある斬新な建築が特徴です。

趣向を凝らした企画展や特別展のほか、常設展では、ジオラマや実物展示を多く配置して、その当時の暮らしぶりをわかりやすく伝えています。土・日曜日には、ボランティアの方の協力により、この地域で昔から行われていた糸つむぎや機織りも無料で体験することができます。

企画展・特別展などの情報は下記URLからご確認ください。

一宮市博物館

七つ石

大小18個の岩石の中に、露出顕著な岩塊が7つ見られるので、「七つ石」の名称がつきました。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が熱田の森(熱田神宮)から伊吹山に向かう伊吹山征伐の途中、七つ石で剣を研がれたとの伝説から「剣研石」とも呼ばれ、この地が「砥塚(とつか)」(現・戸塚)と言われるのは、この伝説が由来となっています。


中嶋城跡

中島左衛門尉宣長※が居城していたといわれ、城主となった歴代の子孫は「中島蔵人(くらんど)」として居城したが、室町末の戦乱で廃城になったと伝えられる。

※中島左衛門尉宣長…鎌倉時代から当地の豪族であった中島家に生まれた。読みは中島宣長(なかしまのりなが)。左衛門尉は当時の官職のひとつ。

長隆寺

本堂と山門は市指定文化財になっています。
五大尊画像は県指定文化財になっており、一宮市博物館で所蔵されています。

高木の一里塚跡

明治初年まで道の両側に塚があり榎も残っていましたが、いつの間にか円形の田になっていたと言われています。

そもそも一里塚とは…
街道の両側に一里(約4㎞)ごとに塚を設け、その塚の上に目印として樹木を植えたもの。織田信長、豊臣秀吉のころから築かれたが、制度として確立されたのは、慶長9年(1604年)徳川家康が2代将軍秀忠に命じて、江戸日本橋を起点として主要街道に築かせてから。

萩原宿本陣跡

萩原宿は、美濃路という大通りに約420年前に誕生した宿屋街で、本陣※とは”将軍や藩主など位の高い人が宿泊する場所”のことです。
昔懐かしい風情を残す萩原商店街の北側には、ここに本陣があったことを示す石碑が建てられています。

また萩原塾は上町と下町に問屋場が置かれていました。上問屋跡にも石碑が建っています。
また、近くにある正端寺の前には高札場※が置かれていました。

※本陣…一般の旅人の宿泊は認められない一方で貴人の宿としての格式を保つため、維持管理に多くの費用がかかり本陣の経営は厳しかった。
※高札場(こうさつば)…
高札とは幕府や諸藩が決めた法度や掟紙、禁令、罪人の人相などを木の板札に掲示した立て札のこと。この立て札を、人目を引くように交通量の多い宿場の辻や市場に高く掲げておく場所。

「美濃路街道を行く起宿】」「尾州織物 のこぎり屋根を行く」編は
観光協会公式HP「各種パンフレット」をご覧ください。

一宮市観光協会 各種パンフレット

一宮市 「i-バス」公式HP

Useful Information

お役立ち情報

おでかけ前にチェック!

関連WEBサイト

PR