ツインアーチ138からの風景




ツインアーチ138(138タワー)は一宮市の最北端の木曽川河畔(分流)にあります。
この位置からは天候に恵まれさえすれば、尾張平野をすべて見渡すことが出来ます。

 

  

≪東≫  

 この風景はツインアーチ138から東の犬山方面をみたものです。正面右がわに見えるのは、冠雪
した恵那山です。
 

 眼下の川は木曽川の支流で、左端に僅かに見えるのが本流です。
 

 画面中央が犬山市で、右端には本宮山などを見ることが出来ます。

 

 木曽川は江戸時代に治水が完成する前は多くの支流を持ち、一宮市内でも現在以上に
河川が多く存在しました。

  現在上流にはダムが複数建設され、水量は減少していますが当時の洪水時には大変な
流量があったといわれています。

 


  

  

≪東南≫ 

 この風景はツインアーチ138から南東の方向小牧方面の景色です。画面中央が小牧山で、後方には
低い瀬戸の山並みが見えます。

  
 小牧山は尾張平野における展望台で、豊臣秀吉と徳川家康の唯一の合戦、「小牧・長久手の戦い」で、
徳川家康がここに陣をおいたのもツインアーチ138から見ると納得がいきます。

 
 写真ではわかりませんが、この小牧山とタワー中間辺りが「浮野の合戦」のあった場所です。
小牧山の西に本拠地のある、岩倉織田氏と織田信長の本格的な戦闘で、600人以上の戦死者
を出す激しいものでした。
 


 

 

≪南≫

    この風景はツインアーチ138からほぼ真南の方向です。右端にJRセントラルタワーズ(名駅ツインタワー)、
左端に小牧山、写真中央に東山タワー、そのやや右にザ・シーン城北アストロタワーを見ることが出来ます。
 
 戦国絵巻はほぼこの中で展開したと言っても過言ではありません。清洲城、桶狭間、長久手、
等はすべてこの視界内にあります。

  


 

 

<南西>
 この風景はツインアーチ138からほぼ南西の方向です。

 
 写真右端は鈴鹿山系の北端で藤原岳を望む事が出来ます。

 
 その手前の山並みは養老山系で南端が多度山になります。
  

 古来、この方面は伊勢に通じており、関ヶ原合戦のおり島津勢はこの山並み
に沿って逃げのびたのです。歴史は残酷で逃げた島津に徳川幕府はその川並の

堤防工事を数百年後に命じ、多くの犠牲を強いています。その場所千本松原も視界の中です。
  

 やや南の平野の中に、織田信長生誕の勝幡があります、信長はこの平野で
生まれ育ち、天下統一の足がかりの兵をこの肥沃な尾張平野で養ったのす。

  


 

  

<西>
 この風景はツインアーチ138からほぼ真西の方向です。
  

 西には霊峰伊吹山が一際高く聳えています、この南が関ヶ原で、その手前に大垣城、
墨俣城があります。
  

 関ヶ原は伊吹山と養老山系の挟まれた狭隘の地で、古来「関」が設けられていま
した。ここは、京への北国への要所で、壬申の乱の昔から東への守りを固める重要な
ゲートでした。

  

 有史以来戦は絶えず、日本武尊も伊吹山麓で落命したと伝えられています。

 木曽川はのツインアーチ138の西方で大きく南に蛇行し、河口付近では長良川
と揖斐川と集合して木曾三川となります。
 


 

 

<北西>
 
この風景はツインアーチ138からほぼ北西の方向です。
  

 中央やや右に岐阜駅前の高層ビルが見えます、遠くには福井・岐阜県境の山々が
連なっています。
 

 眼下には木曾川の中洲川島とそれを横切る北陸自動車道が見えます。
 

 木曽川の川面に伊吹の彼方に沈む夕陽がもっともきれいに見る事ができるのがこの
ポイントです。

 


 

 

<北>

 この風景はツインアーチ138から北の方向の景観です。左側に岐阜城(稲葉山城)が
あります。木曽川の本流はこの下流で大きく蛇行して伊勢湾に向かいます。

  
 この付近は流量が多く、渡河が困難であったと記されています。このため戦国
時代の戦闘はこの地点を避け、流れの緩やかになった一宮市西南部から渡河
して行われたようです。(墨俣の合戦など)

 

 ただ、関ヶ原の合戦では東軍の先鋒は傭船を用い、強行渡河したとの記録
があります、眼下に見えるのはその地点です。

 


 

 

<北東>

 この風景はツインアーチ138から北東の方向の景観で、中央に御嶽山が見えます。

 中央に見える河川は木曽川の本流で、ダムが建設されるまでは運搬の中心
でした。 木曾檜の筏流しは有名ですが、帆掛舟での遡上の資料も残っています。

 


 

 

 ツインアーチ138から東方面を広角で撮影した風景です。木曽川の支流はこの上流で
本流から別れ、下流で再び合流しています。
 

 現在は分流地点あたりから、宮田用水が市内に流れ込んでいますが、治水が不
完全な戦国時代は、蛇行地点あたりからたくさんの支流を作っていたと考えられます。

 

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